SECRET " イマジネーションを語る "
by JACK OR JIVE


makoto 昔の人に言わしたら、”想像する”ってメディアも本とかが中心で文章の行間を読むというか、そういうイマジネーションが発達していたけど、現代の人は映像とか音とかで感じ取るのが主体で昔に比べてイマジネーションがあんまり必要でないかのように言われるよね。実際はその映像や音からは、イマジネーションを広げる人は、ものすごいスピードで広げてるわけやから、表現形式には関係ないんやなぁと思う。むしろ今の方がイマジネーションを膨らますモチーフはたくさんあるからね。

chako 感性の問題?

makoto イマジネーションを必要とするものと、あんまり必要としないものが、はっきり分かれてきた気がする。映画でも音楽でも。そう思わへん?

chako その表現がストレートかそうでないかとかが問題ではないと思うんよ。ファジーなものに感性が必要でストレートなものには感性があまり必要でないわけではないし。

makoto つまり、受け取り側が自由に解釈できるスペースを空けてくれている作品はその受け取り側がイマジネーションを育めるということで、ある意味ではストレートでないかもしれない。

chako そういや、こないだの映画で”ダンサー・イン・ザ・ダーク”観たでしょ?あの作品に皆それぞれの感想を持っているんやけど、映画そのものを否定する声もあったんよね。YAHOOの掲示板にわたしもついつい書き込みをしたんやけど、主人公が最終的に究極の精神的な状態になったでしょ?ある意味映画そのものはストレートやった。そこでこの映画を見終わって主人公の立場に自分を置き換えて考えられるか、そうでないか?この作業がナチュラルに出来る人がイマジネーションが豊かなわけで、この作業が出来なかった人は結局主人公を超えて映画までを否定したんやと思うんよ。もちろんあの映画は非常に重かったから、なんでお金払ってまでこんなに悲しい思いせなあかんねんっていうムードになったのかもしれない(苦笑)。それは、ジェットコースターが苦手な人がお金を払って乗るような状態に近いのかもしれんね。

makoto あの映画は、はっきりとした結末はあったものの、そこに人の思いが色々あって、見終わった後に、『ああした方がよかった』 『わたしやったらこうした』とかの意見交換ができるもので、久しぶりにイマジネーションを使った議論を提供してくれた映画を見たという感じが僕の中ではあったよ。ほんとに久しぶりにこんな気持ちになった。

chako 確かに、あの作品を見て号泣したわたしにとって、YAHOOの掲示板に書かれていた否定的意見はショックがあったなぁ。あの痛みは、経験していなくても十分に理解できたし、イマジネーションの重要性みたいなものを本当に強く感じたわ。
実に最近の事件なんかもイマジネーションの欠如から生まれたものが多いしね。昔も残忍な事件はあったものの、そこには恨み的犯行が多く存在した事件が多かったけど、今はそんな恨みじゃない事件が増えてきてるんよね。この事件で言えることは、明らかに自分の欲望が走り過ぎたもの、そして自己中心的なものなどが多くて、相手側の立場などは一切関係なく、そこには相手の顔が見えていないんよ。性的な想像で爆走しちゃう究極のイマジネーション性犯罪もあるんやけど。この際のイマジネーションはどんなものかしら?ちょっと迷惑な一人よがりイマジネーションやなぁ。う〜ん妄想とイマジネーションは紙一重やけどね(笑)。

makoto 妄想も立派なイマジネーションやけど、欲望がうごめいてる分感性は少し曇ってるかもしれない(苦笑)。

chako まぁ〜性的なイマジネーションによってヤンシュワンクマイエルの”悦楽共犯者”みたいな映画も生まれるわけで、あれはあれでおもしろかったしね。性的なものも純粋に一人でイマジネーションをもって楽しむことはいいんやと思う。但し、性的なもの以外でも相手のあるイマジネーションには十分に気を付けておかないと、相手の感受性の度合いによって誤解が生じるとつまらないからね。

makoto あの”悦楽共犯者”の面白かった所は、自分の生活も他人の目から見たら、ああいう風に滑稽に見えるわけで、人それぞれ大なり小なり悦楽共犯者ではあるよね。だから、”ダンサー・イン・ザ・ダーク”みたいな時に議論しあえる場があってもええと思うんよね。まぁなかったらなかったでもいいんやけど。

chako どうしても生きるか死ぬかなど切羽詰まったものじゃない限り、日常では楽しい方向へ人は走りたがるし、楽しくありたいと願うのね。わたしが思うには、取りたてて日常ってそんなに楽しいものでもつらいものでもなく ただ広がる空間のような気がして、楽しいことも勿論あるんやけど、その楽しさの悦楽ってとても瞬間的なんよ。持続性のない喜びで、実際こんな風に客観的に語ってしまう所がこれを物語ってるとは思うんやけど、どこか命あるものの限りってところは寂しいもので、その部分は絶対に拭い切れないんよね。だからこそ、瞬間的に喜怒哀楽は大事にしたいと感じるのよ。わたしが音楽で表現し続ける中で、言葉を超えたこの気持ちは作品に封じ込めているし作品を媒体にし、さまざまな国の人とコミュニケーションをとってるでしょ? 結局自分の中で確信が持てたところは、作品によって言葉を超えた音の向こう側にある何かが、確実に人の心を動かす。但しそこにはイマジネーションが絶対的に不可欠だと言うことなんよ。

makoto イマジネーションをあんまり使って音楽を聴いていない人は、JACK OR JIVEを聴いて決まって第一声は『何歌ってるの?』って聞く(笑)。『言葉はないねん。』って答えたら、『ふ〜ん。』で終わってしまう。だからJACK OR JIVEの場合は、イマジネーションのリトマス紙的音楽な感じはするんやけどね(笑)。

chako 日本での音楽の聴き方は言葉が先にどうしても先行してるから、言葉に意味はあるものっていう 固定観念があるんやろうね。わたしにとっては英語の歌聴いて意味をいちいち考えて聴くというのも不思議な感覚で、メロディーが気に入って深みにはまり、一体彼らは何を歌ってるの?という次の段階興味が湧く。でもって、歌詞の意味は気になっても実際には調べない(笑)。まぁ曲が素晴らしい場合は、もう言葉を超えているからね。ボブ・ディランやパティー・スミスのような詩人は別格として、通常のミュージシャンは歌詞よりも曲の旋律に重きを置くべきやとわたしは感じるけど(笑)。

makoto 昔、ロックのレコードを買って帰って、歌詞カード見ながら曲を聴いたんやけど、そしたら曲の構成やサビは良く分かるんやけど、ちっとも楽しくなかったんよ(笑)。それから歌詞カードを見ながら聴いたらあかんと感じたよ。日本のテレビでここの所、歌詞テロップ出してるけど、あれは止めた方がいいけどね。

chako あれは、歌詞テロップいるでしょ?あの手の番組はみんなカラオケレッスン用のお手本ビデオとして視聴者は楽しんではるんやから(笑)。まぁ、カラオケ文化が日本語歌詞の定着を図ってるのは確かでね。ロックなんて英語の言葉の響きでないと、本当にリズムに乗りにくいものよ。 元々日本語って、母音がすべての子音に付いているから、母音は伸びるのね。言葉の響きが切れないから、非常にリズムに乗せると言葉のハーモニーが不自然な響きになって聞こえてくる。逆に、言葉を伸ばした歌の乗せ方の方が言葉の意味も分からなくなって子音に付いた母音も美しく響くと感じるなぁ。アクセントのない日本語の言葉の致命傷は、音楽にとってハーモニーにモロに出るんよね。わたしも過去に日本語の歌詞で歌のメロディーを作ったことがあるけど、めちゃめちゃメロディーに制限を感じた事があったわぁ。これはあかんわぁって実感した。そんな意味もあって、作るのは勿論の事、日本語の歌を聴いていると全くと言っていいほど、イマジネーションが働かなくなってくる。まぁ、歌詞も恋愛のものが多いしね。そんな経験歌われてもこっちが赤面してしまう内容のものも多いし(笑)。

makoto 恋愛の歌詞でも書く人によっては、人間を深く書くことが出来るけど、最近のものは日記を読んでいるような感じがするもんなぁ。森高千里以来かな(笑)。彼女はある意味歌詞を日記と位置づけた天才やったけど(笑)。

chako わははははぁ。そうやなぁ。”わたしがおばさんになっても”の歌詞はJACK OR JIVEに衝撃的打撃を与えたもんなぁ(笑)。まぁ、森高も今は脱アイドルで専業主婦やし、実際のおばさんになりつつあるのでめでたしめでたしやけど(笑)。
さて、イマジネーションの話に戻るけど、わたしが18歳の時にものすごく悩んでて、初めてJESUS&MARYCHAINを聴いた時にぶっとんだんよね。まぁその悩みってのは、人との折り合い、自分との折り合い、社会との折り合いの類で、今想像しただけで青臭い話なんやけど、その時実感できたのはイマジネーションによって人は人生を変えられるって事やねん。人生っておおげさな話やけど、音の向こうで鳴り響くものの中に、他人が教えてくれない秘密の鍵が潜んでたって感じ。言葉で表現しにくいけど、この鍵は自分自身捜していたものやけど、現実社会にはなかなか見つからなかったもので、彼らの音楽がキーワードとなって、見つけられたんよね。だから実際体験したからこうして語れるんやけど、わたしは本とか映画よりもイマジネーションを膨らますのに時間がかからない音楽に、最初に弾けたわけ。人によってじっくりイマジネーションを楽しみたい人は別のモチーフがあるんやけど、わたしは音楽が最初やったんよ。

makoto 実際に、そんな鍵は目を凝らしてみたら世の中にいっぱいあるんやと思うんよ。ただその自分が求めているものと、鍵の種類と出会うタイミングがぴったりと合わへんかったら鍵は開かないし、向こうの世界も覗けないという事やと思うなぁ。

chako まさにそうやなぁ。実際、たくさんのものに触れてみて感じてるわけやけど、ほんとぴったりと合う瞬間ってあると思うわ。タイミングは大事やな。でも、中には出会えていない人もいると思うけど、捜しつづける気持ちっていくつになっても持っていてほしいと思うね。それがイマジネーションを風化させない秘訣やとも思うしね。

makoto 昔はビデオもなかったし、食費を削ってレコードを買いあさったりしてたもんやけど、今は安い中古CDも出回ってるしでもあんまりいいのはないけどね(笑)。作品に触れるという意味では恵まれた時代やと思う。けど物が溢れかえっている分、まがい物も多いから余計にイマジネーションの真価が問われるんよね。

chako なるほど。過去と比較すれば歴然と趣味趣向を楽しむ種類は増えたよね。選べる楽しさは増えたけど、見つけるのにも時間を要するのも事実やなぁ。趣味趣向を説明する解説本も随分と増えたし、それを見て最大限のイマジネーションを使って選択するのもええし、また解説本抜きで手当たり次第行くのもええし、それは個人の赴くまま進めばええ事やからね。まがい物でも個人によっては真珠にもなるわけで、これらは感性のなせる業と思うしかないよ。大人になってから作品に触れる行為は、感性を風化させない行為なんよ。感性は10代など多感な時期に確立されるので、自分が18歳から20歳までの頃に何を感じ、大事にしたかを思い出すとええと思うよ。その頃に感じたものが感受性の骨組みになっているからね。しかし、この手のイマジネーションに関心のない人は、そのままきっとご老人になるだろうし、作品を通じて向こうの世界を知ることなど、彼らには全く重要ではないわけ。もっと現実的なマネーの方が大事になってくる。この現実的な物質社会で欲求を満たす事に重きを置いて人生を楽しむと思うわ。またそれも人生やしね。ただ今現在10代の人で、イマジネーションについて考えている人って、大人よりももっともっと繊細な人が多いだろうし、壊れそうな人も多い。そんな角度から見ても10代の感性を伸ばす必要性の意味は違ってくる。10代の時に傷ついた事があったとしても決して妥協することなく、自分探しをする旅は続けてほしいわ。それには本来良き理解者が必要なんやけど、万が一その時に良き理解者が出てこなくっても、こうした作品との交信によって、絶対に辿り着けることだけは信じて欲しいなぁ。10代で見つからなくっても、30代で見つかることもあるんやからね。誰しもが漠然と持っている孤独感などは、きっとタイミングによってぴったり符号した瞬間、それに対し核心の持てる答えは見つけられるはずやから、諦めないで交信し続けるイマジネーション、これを本当に大事にしてほしいと感じるわ。